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これはレスなので

 投稿者:とりい  投稿日:1970年 1月 1日(木)09時00分0秒
  あとで続き書きますが、
集団レベルに個人レベルを意図的に持ち込むのは、詭弁になると思います。
(野崎昭弘「詭弁論理学」参照)どのレベルで話をしているか明確にすることが、
逆に話を論理的に発展させるのには必要だと思うのですが。
これ、稲葉さんに対していっていた「定義をきちんと」と同じことになりますかね。

相互撤回了承。私の主張が「危険をはらんでいる」のは認めます。
その危険をいかに回避するか、ですな。
 

個人と集団

 投稿者:海法 紀光  投稿日:1970年 1月 1日(木)09時00分0秒
   私は集団レベルの話に個人レベルの話を持ち込んでいます。それは意図的なことです。
 まず、英語を習った日本人はネイティブと機能は同じでも、それを行う認識は
全く違うでしょう。
 同様に、社会学的に言う、日本人の集団や、ある英語ネイティブの集団の両方から
離れているとも言えるでしょう。

 …ていうか、人間なんてな一人一人違うわけで、それを集団ごとに捉えないと
意味のある結論を引き出せないというのは学問の限界であって、限界は現実ではない。
 そのへんの境界条件をいかにうまく設定させ、発展させるかというのは、どの学問で
あっても重要事項なのだろうと考えます。

 で。ここのとりいさんのCoral Red Bulletin Boardに集まった人間。全員国籍的には
日本人と思われますが、その全員が社会学的日本人集団に完璧に属する、典型的
日本人である…という保証はどこにもない。

 なのに、「ここにいる人は日本人だから哲学できない」と言うのは、現実に限界を
押しつける行為であり、「あなたは日本人だから、生魚が好きで、枯山水を理解する
おしとやかな国民だよね!」というのと同レベルの思いこみに思えたわけです。
 その思いこみ=恥ずかしいオリエンタリズム、と私は主張しました。

 それが言葉遊びの結果であって、特に本気で主張しない、ということでしたら…
こちらの誤解なので、恥ずかしいオリエンタリズムに関しては撤回します。

 ですが、西洋、東洋という非常におおざっぱなくくりで集団を分けた結果得られる
結論を、物理学者の現場の問題に当てはめて意味のある結論を出すことができるか
どうか、というのは私は未だに懐疑的であると言わせていただきます。
 そして、それに失敗すればそれは「安っぽいオリエンタリズムの押しつけ」に
なる危険をはらんでいるかと。
 

補足

 投稿者:稲葉振一郎  投稿日:1970年 1月 1日(木)09時00分0秒
  2月26日(金)01時37分17秒 の書き込みを見ると、
鳥居さんもセルフオリエンタリズムについてのある程度の理解はあるように見えるですが。
 

角田さんへ

 投稿者:稲葉振一郎  投稿日:1970年 1月 1日(木)09時00分0秒
   角田さん、私が自分で「オリエンタリズム」の説明をしたことはないので、鳥居さんが
おっしゃっているのは岡さんの引用だと思います。で、角田さんの疑問はだいたい私も鳥
居さんに聞きたいと思っていたことと重なります。
 百歩譲って鳥居さんが行った要約が正しいとしても、問題は、この三つの契機が簡単に
は切り離せず連動しがちである、ということにあると思います。本人が1の立場をとって
いるつもりでも、知らずに2や3を招き寄せる、という。サイードの「オリエンタリズム」
概念の価値はこれら諸契機の寄せ集めを行ったことではなく、その連動を指摘したところ
にある、というのはごく標準的な理解だと思います。実際この点については、鳥居さんよ
り投書さんの理解の方がよっぽどしっかりしている。もちろん刃が自分に跳ね返ってくる
ことへの自覚が希薄だが。
 付言すると、それ故に、原理主義は西洋にとってのおぞましきものとしてのゆがめられ
たイメージを自ら引き受けて逆襲する、鏡に映ったオリエンタリズム、という側面があり、
日本の近代主義はセルフオリエンタリズムとも言える、というわけです。

 さて、なぜそのような連動が起こりがちか、という問題ですが、哲学サイドでの「翻訳
の不確定性」とか「不可共約性」などと絡めて論じることもできるでしょう。(科学哲学
・言語哲学と文化の政治学の間の「通訳」にはそれこそかなり注意が必要ですが。)クー
ン以降のいわゆる「新科学哲学」におけるパラダイム間の「不可共約性」論とか、言語学
における「サピア=ウォーフの仮説」(の一人歩き)に対する哲学のフィールドでの批判
としてはデイヴィドソンの批判がよく知られていますよね。(「概念枠という考えそのも
のについて」『真理と解釈』所収。)
 それは大ざっぱに言うと「「我々と彼らはこんなに違う、だから相互に理解不可能だ」
ってあんた、いま「こんなに違う」ってその違いについてのあんたの理解を現に示したじ
ゃん?」ていう突っ込みから議論が始まっている、と私は理解します。つまり、「不可共
約性」を云々して、異文化とか別の理論とか異なる概念枠とかがお互いに如何に異質で理
解不能であるかを強調する論者は、実際には研究対象の異文化が如何に異質か、を自分と
同じ文化圏の他人に現に説明している、つまり異文化に対して自文化の文脈の中でそれな
りの理解と説明を現に与えている、ということをデイヴィドソンは指摘し、「不可共約性」
とかいった言葉で語られている事態についてもう少し頭を冷やして考え直す必要を示唆し
ているわけです。(科学哲学に詳しい人、なんかあったらつっこんで下さい。伊勢田さん
見てないかな。)
 もちろん「そのような理解は常に不完全である」と言うことはできるんだけど、問題は
「じゃあいったいどこの誰がその不完全性を、そして逆に完全な理解とは何かをはかる尺
度を持ってるってのさ?」ってことですよね。もちろん誰も持ってませんよね。もし「不
可共約性」を前提とするなら、みんなそれぞれ自分なりの尺度でやるしかないわけで。と
するとここで完全な理解の可能性・不可能性を云々するどころか、それ自体疑似問題かも、
理解の程度(というより様態?)を「完全・不完全・どの程度完全」といった尺度で測る
こと自体できないのかも、という疑問が生じてくる。
 このようなパラドクシカルな状況を前にしてデイヴィドソンは「概念枠という考えその
もの」の放棄にいたるわけです。たしかに文化とか概念枠とかをあまりにもソリッドなも
のと考えすぎると、異質性を云々すること、理解可能性を理解すること(? これではた
だの逆説だからもっと適切な表現がいる?)自体できなくなってしまう。もちろんクワイ
ンや、そして私がやっているようにそれらをもっとルースなものと考えればこの逆説はあ
る程度回避できますが。
 この辺の困難に無自覚に相対主義を云々していると、異なる諸文化・様々な立場を客観
的にその多様性を評価できる場に立っていると錯覚して、実は自分の評価軸を無反省に振
り回すだけ、という結果になりがちなのでは。これがさしあたりの私の解釈です。続きは
海法さんのところでやりましょうか。
 

オリエンタリズム下巻。

 投稿者:とりい  投稿日:1970年 1月 1日(木)09時00分0秒
   海法さん、「とりいさんが決定主義と西洋至上主義を主張している、
と海法は思いこんでいる」というのが誤解だという前提なら、とりいの
発言は安っぽいオリエンタリズムというのも誤解として双方撤回を提案する。
それで一つ問題が片づくような気がするのだが。

 ただ、あなたは個人のレベルと集団のレベルを一緒にしていないだろうか?
「米文学のできる日本人」(個人)というのは、機能的にはネイティブと同様に
話せても、認識レベルでどこまでネイティブ(集団)に近いかは疑問だし、第一
その個人はネイティブの日本人(集団)にどれくらい近いのだろうか。すでに
日本人(集団)よりもアメリカ人(集団)に近いかもしれないし、両方の集団に
近い場合は同時に両方の集団からある程度離れている可能性が高い。
また文化の違い、を構造として考える場合は集団について考えているのだし。
なお、「英米文学」というのは学部の名前で、文化的には「英語」と「米語」は
全く別物。先に「アメリカ」の例を出したので、あえて「米文学」で統一した。

 さて、オリエンタリズムの続きであるが、この構造の西洋における特殊性
としては、それまで積極的自己認識(「私は○○--キリスト教徒、白人、
アーリア人--である」)中心だったアイデンティティに、消極的自己認識
(「私は○○--アフリカ人、イスラム教徒、野蛮人--でない」)を加えた
側面は、先日書き落とした。これで角田さんへのフォローになるだろうか。

 ともかく、マジョリティにより社会構造化されたオリエンタリズムの認識は、
理論では60-70年代の新マルクス主義に結晶されたといっていいだろう。
だが、この理論は本来もたらすべきであったろう社会の改革の代わりに、
マイノリティがマジョリティにすべての責任を転嫁し、自発的努力を損なう
という逆の効果を生んだ。結果的に双方が互いに非難しあう(マイノリティは
マジョリティの「構造」を、マジョリティはマイノリティの「他人頼み」を)
ばかりで、問題の社会の変革そのものは行われなかったのである。
(ピアジェの学習論が身にしみるところだ。)
 また、マジョリティの間では、前述のの3を除いた「エキゾティシズム」が、
オリエンタリズムに取って代わった。これは文化のよしあしの意識がきわめて
弱体化しているにもかかわらず、絶対主義的決定論に固執している。この傾向
は、ステレオタイプを「好意的に」適用する。つまり「あなたは日本から
来たから当然和食は好きでわびさびを愛してるわけね、すばらしい」という
反応である。(余談だが、私は生魚なんぞ食べられないし枯山水はあほくさい
と思っている人間なので、こういうコメントには実に閉口する。)この傾向
をもつ者にとって、あれほどすばらしい自文化を好まない○○人は、非常識な
(おろかな)人間、ということになる。
 そして彼らが異文化を愛すると賞する行為が、実は「私は異文化を尊重して
いるのだ」という自己主張に過ぎないことも多々ある。
また、一般的なマジョリティにとってオリエンタリズムの認識がなお「個人の
行為」であるのに対し、マイノリティにとっては社会構造そのものを指す
という違いも、両者の対話の障害として依然として存在する。

 文化的問題はともかくとして、社会問題としてのこの「構造」を語り、
乗り越えることができるのかに関しては、私は楽観的である。というのも、
確かにこの構造は上の世代では内在化しているが、私たちの世代(1970年代
生まれ)あたりになると、これらの構造と同時に「個人主義」が根付きつつ
あるからである。仮に最悪の偏見を持っている人であっても、そのステレオタイプ
に反する個人を目にしたとき、それによって自らの偏見に気づき・変わっていく
例は多いし、現実に私も目撃している。(もちろん相変わらず変わらない人も
いるが)。

次回は、誰だかわすれたが誤解されている原理主義について。
 

ぼくの日本語は少し変

 投稿者:ハラダイチロウ  投稿日:1970年 1月 1日(木)09時00分0秒
  ですね。読み返してそう思います。読みにくかったらごめんなさい。
稲葉さん、2番目のリンクみて少し分かった気がします。
僕は、実は純粋なメタレベル・オブジェクトレベルも存在しないような気がしていて、
そこいら辺の仕切は個人によっていかようにも分けうる、つまりこうした弁別自体が
ある種のレトリックだとおもっていて、そこら辺も引っかかっていたので、出典を
質問したまでなのですが、稲葉さん自身、こうした弁別を限定して用いられているようだし、
その弁別自体の有効性にも意識的に見受けられました。

多少込み入った話になりますが、僕は悩める建築家として、観念が直裁に造形(あるいは言語)表現になるということに
とても懐疑的です。職能的にも僕らは他者を相手にしなくてはならないし、一種の共同性のようなモノもまた意識しなければ
ならない。だから、ロジックを明快にしようという指向はあっても、そのリアライゼイションは常にそして不可避的に
折衷的なものになります。説明的な論法として、状況への解答という形式をとるし、その形式はきわめて修辞的なモノなの
ですが、一方でこの修辞的構造は理想態としては成立するんだけど、言語で要約しきれるようなモノではないこともまた
また明らかです。
 

いやいや

 投稿者:ハラダイチロウ  投稿日:1970年 1月 1日(木)09時00分0秒
  僕が聞きたかったのは、鳥居さんと稲葉さんの議論の文脈のなかでの、
メタレベル-遂行レベルというお話ではなくて、遂行レベルという言葉をみるのが
はじめてだったので、よのなかにそういう区別があって、一般的な言葉なのかどうか?
という事を伺いたかったのです。なにか文献ご存じでしたら教えて下さい。勉強します。

海法さん、初めまして、
書き込み大変面白かったです、言葉ないし文化というのは、ある種の与件として、その
範疇にくらす人間の活動の枠組みとなっていることには、個人的にも経験があります。
僕は建築家のアトリエのスタッフなんですが、一昨年、オーストリアから臨時のスタッフが
事務所に参加したとき、同じ建築作っていても、例えば窓の開け方とか、線の扱い方が随分違うなあ
と感じたことがあります。僕らはある作品をみるとそこにいかなる意図が込められているか、
どのような問題への解法なのかを読む訓練をされているので、建築作品のコンポジションは、
基本的に言語的な構造を持っているのですが、ネイティブの建築家と僕らとはやっぱり視点が
違うなあと思ったことを思い出したわけです。極論すると、ヨーロッパの建築家は、
建築物を意味を構成するモノとして認識しているようなところがあり、部分への意味付けや
部分を部分としてはっきり表現するようなところがあります。
対して僕らは、どちらかというと、部分の持つ意味をフラットにしていくように感じました。

階段なんかみていてもそうですが、日本の階段は、材料は変わっても木造の階段とその形式が
余り変化していない気がしますが。ヨーロッパの階段は、テンション材やトラスを使って、
部材の力学的な性質をはっきりをあらわすものも多いように感じます。伝統的に、日本の小屋組
もそうですが、僕らは曲げでもつように比較的無頓着に材料をあつかっている。

なんだか良くわかんない書き込みですが、自分の身近な話題ともリンクしそうなので書き込みました。
(哲学の分野では、西洋-要素還元主義なんか、今言い出すとなんの意味もないのかもしれませんが、
少なくとも西洋近代の建築では、部材にかなり明快に要素としての表現を与えているとおもまいます。)
 

了解しました

 投稿者:海法 紀光  投稿日:1970年 1月 1日(木)09時00分0秒
  > 海法さんの批判についてだが、ふれられた私の発言は単に稲葉さんの
>発言に対応する言葉遊びであって、意味はない。

 了解しました。それが知りたかったので、「賛成なのか反対なのか本気なのか、
冗談なのか?」と聞いた通りです。
 言葉遊びということなら理解しました。誤解して失礼しました。さて、それと同時に
「とりいさんが決定主義と西洋至上主義を主張している、と海法は思いこんでいる」
というのが誤解だというのもご理解いただけますか?

>海法さんはそれがを認めるのが悪いことだと考えているようだが、

 日本語ネイティブの人間は、アメリカ人と同じようには英語をしゃべらず、ヨーロッパ人と
同じようには哲学できない、という意味でしたら賛成です。
 レベルが上とか下とかという話しではなく、英語をしゃべるに至る、哲学をするに至る
考え方の形成に大きな違いは当然あるでしょう。ある人間は、その生まれ育ったその
時代、その場所、その人間関係における、環境文化によって大きな影響を受けていますし、
その影響を通して、様々なものを理解するわけで、それはミクロで言うなら、誰一人として
同じではないけれど、まぁ例えば言語は大きな意味を持つだろうし、そういうものを使って、
大ざっぱに文化圏とかそんなもので分けることが意味を持つレベルもある。

 ただ、言葉遊びを蒸し返すなら、それをして「哲学ができない」とか「英語ができない」
というのだったら、普通の意味では言い過ぎになりますよね。ペラペラに英語をしゃべり、
英文学研究のできる日本語ネイティブもいるし、西洋哲学に色々なものを付け加えることの
できる日本人哲学者もいるのは確かだし、それは否定できないわけで。一応それを確認
したいです。

 で、それを認めるのが別に悪いことだとは思っていません。認める認めない以前に
当たり前だと思っています。
 もし、この主張が今までの私の文章と大きく矛盾しているところがあるようであれば、
教えてくださればうれしいです。
 

「オリエンタリズム」の定義について教えてください。

 投稿者:角田幹夫  投稿日:1970年 1月 1日(木)09時00分0秒
 
 
 角田です。ここへは初登場でございます。
 鳥居、稲葉の両氏に、私信として送ったものですが、ここに転載させていただきます。

 鳥居さん、稲葉さんのどちらでもいいのですが、教えてください。
 さて、鳥居さんは、「限定フォローとオリエンタリズム」(02月24日(水)06時58
分23秒 )において、

> オリエンタリズムについて。ほんとにこんな基本的な議論でいいのか心配だが、
>    それ以外の要素が諸氏の書き込みに見あたらないのでここからはじめる。
>    稲葉さんが前にあげた「説明」をさらに要約すると、オリエンタリズムは
>    次の3つの要素をもつことになる。
>    1 文化多元主義(Cultural Pluralisme) 
>    2 決定主義
>    3 西洋至上主義
>

と書いています。そして、この「要約」に準拠しつつ、

>さて、1であるが、はっきり言ってこれなしに社会科学、特に人類学は成立しな
>い。
>チョムスキーのような普遍主義者だって、少なくとも表象レベルでの差異が
> 存在することは前提としているのだ。ましてや多元主義者ならば当然本質的差異
>を。
>そしてこれは、オリエンタリズムの影響を脱却して非西洋文化が誇り(Dignity)を
>取り戻す唯一の手段なのである。異なる文化の存在を認めなければ、あらゆる
>「文化」は一つの大文化のサブカルチャーとして扱われ、その地位を確立するこ
>とはできない。
>ちょうど、アメリカが「メルティング・ポット」を主張していた頃のようにだ。

と批判しています。
 そこで質問なのですが、鳥居さんの「要約」した「稲葉さんが前にあげた「説
明」」というのは、どのメッセージを指すのでしょうか。「最近見た大変よくでき
たオリエンタリズム定義(引用ですまんよ)」(01月27日(水)22時22分11秒)にお
いて引いている岡真理さんの「定義」ではないですよね。なぜならば、この岡さん
の「定義」からは、どうしても上のような「要約」は導き出せないと思われるから
です。そこには、まず「文化多元主義」らしきものへの言及は一切ないですし、ま
た「西洋至上主義」ということに関しても、「単に「西洋」が「オリエント」を客
体化して「野蛮」で「戦闘的」で「後進的」と言った、偏見に満ちた否定的な属性
を一方的に付与したということだけにあるのではなく」と、それがサイード流のオ
リエンタリズム概念の決定的な特徴ではないことが示唆されています。寧ろ、この
岡さんの「定義」の中心は、今引用した箇所に続く「その言説の効果として、「オ
リエント」なるものを実体として捏造すると同時に、その反転像として「理性的」
で「文明的」で「先進的」なる主体が構築されるという、「西洋」という主体構築
のメカニズムであることを喝破した点にあることはいくら強調されてもよい。」と
いう後半部分、つまり文化本質主義(cultural essentialism)及び他者の定立を
通じた自己の定立に対する批判的態度ということになると思うのですが。
 以上、お教えいただければ幸いです。
 

ハラダさんへ追加レス

 投稿者:稲葉振一郎  投稿日:1970年 1月 1日(木)09時00分0秒
  ごめんなさい、下記リンクの方がわかりやすいっす。

http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/a0034.html#a19990107073957

 

以上は、新着順21番目から30番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  |  《前のページ |  次のページ》 
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